小高進の公式ホームページ・すこやかみなみネット
2011
03.30
教育コミュニティーづくりには支援型と分担型がある


◆学校・家庭・地域の連携・融合・協働の活動、あるいは、教育コミュニティーづくり活動には、粗く、2つの発想がある。
 1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭や地域で支援してやろう、応援してやろう」(支援タイプ)という発想。
 もう1つは、「学校が多くの荷を抱え、苦しそうだから、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に、適切に分担しよう」(分担タイプ)という発想。
 2つは似て非なる発想である。
 「支援」も「分担」も連携だから、一見、似ている。
 しかし、「支援タイプ」は学校が荷を抱えたままであるのに対して、「分担タイプ」をこれを改めようとする。

◆今、「支援タイプ」の代表として、学校支援地域本部事業やコミュニティスクール・地域運営学校、あるいは、放課後子ども教室推進事業等を、そして、「分担タイプ」の代表として、僕たちの「すこやかみなみネット」を取りあげる。
 2つの「違い」を鮮明にすることによって、僕たちがめざす「究極のカタチ」を明らかにしたい。

◆くりかえしになるが、学校支援地域本部事業等、今、わたしが例示した事業に共通するのは、学校を地域や家庭で支援する(学校は苦しそうだから、支援してやろう、応援してやろう)という発想がある。
 たとえば「子どもの環境は、情報化、価値の多様化も含めてどんどん変化しており、学校はこれまで以上にさまざまな課題を抱えるようになっています。学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援していくことが求められています」(清水潔・当時=文部科学省生涯学習政策局長、現=事務次官)という言い回しだ。

◆しかし、はっきりいっておくが、僕は「学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援」してもらおうと考えたことは、これまで1度もない。
 現在の教育危機の元凶は、(学校が好むと好まざるとにかかわらず)学校が多くの荷を抱え込みすぎたことに(ま、僕流にいえば)「学校の教育丸抱え体制」、あるいは「学校の教育独占体制」にあると考えている。
 だから、(ここが大切……)学校が抱えている荷をそのままにして、「たいへんでしょう。だから、支援してあげましょう」という、いってみれば「そのまま、ずっと抱え込んでいろ」的な発想では、事態の好転は、ほとんど望めない。

◆学校が抱えている荷のなかで、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に……と、適切に分担(この「分担」も「連携」の一形態)することにより、学校の本来の教育活動が充実する。
 同時に、分担することにより(場合によっては現状より、負荷を背負うことになるかもしれないが)家庭も生き返る。
 地域も生き返る。
 すこやかみなみネットは、学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスが取れ、それぞれの教育が充実する状態、このことを目指した、学校・家庭・地域の連携・融合・協働であり、ネットワークづくりである……という発想だ。

◆だから、「もう一度地域の人が結集するシンボルとしての学校を見直そう」(清水潔・当時=文部科学省生涯学習政策局長、現=事務次官)とか、「……さまざまなネットワーク活動を意図的に立ち上げて社会のつながりをつけ直すことが必要だと思う。そのためのひとつの有効な方法として、いい学校をみなで作ろうということを目指した、学校を拠点とした地域と学校の連携を深めるネットワーク活動がある」(金子郁容氏)という思想とは、(「絶対に」とまではいわないが、それに近いくらい)あいいれないものがある。

◆くどくなるけれども、くり返す。
 すこやかみなみネットでは、学校の荷はそのままに……という連携や、学校を拠点にした連携という発想はとらない。
 学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスがよい状態を追い求めている。
 これが、究極のカタチだ。

 学校・家庭・地域のバランスがよくなれば日本の教育はまだまだよくなる。
 日本の学校には力がある。
 家庭もそうだ。
 地域もそうだ。
 ただ、今、バランスが悪いだけなのだ。
 バランスがよくなれば、日本はまだまだ大丈夫だ。
 逆にバランスが悪いままだと、なにをやってもなかなか効果はあがらない。
 バランスをよくするための連携事業、ネットワーク活動が大切だ。

◆わかりやすくいえば、すこやかみなみネットは「学校・家庭・地域のバランス主義」、そうでないのは「学校中心あるいは学校拠点主義」。
 この区別はきちんとつける必要がある。
 区別をつけておかないと、まず、まちがいなく、道を誤る、落とし穴に落ちる。
 今、やっている連携事業が、バランスをよくすることに結びついているかどうかを絶えず点検する必要がある。

◆ちなみに、(これは後の項目で詳しく述べる内容だが)「学校中心主義」かどうかを、見分けるための簡単な方法がある。
 そのネットワークの中核になっているエネルギーがどこにあるかを点検すればいいのだ。

 いろいろな連携事業を取材するとき、僕は、必ず、まず「会議の招集はだれが決めるのですか?」「だれが連絡をとるのですか?」「会場はだれがセットするのですか?」「このプリントの文案はだれが作り、だれが印刷したのですか?」「会計はだれがやっているのですか?」等と行為の主体をたずねる。
 あるところでは、それが全部、その校区の中学校の「教頭先生」だったことがある。
 玄関先まで送ってくれた「教頭先生」が「行政がいろいろ計画してくれるのはありがたいし、その理念もよくわかるが、仕事は、どういうわけか、ぜんぶわたしに来るんですよ」と、ぼやかれたことを忘れない。
 学校中心主義の典型である。
 ネットワークの要に「教頭先生」が存在する。

 「実施要項」とか「会則」とかの「事務局」の項目をみると、「事務局には、事務局長を置き、教頭をもってこれに充てる」と、明記してある場合もある。
 最悪のパターンとまではいわないが、ま、アウトである。

◆話は少しそれるが、日本の社会教育の失敗も、これに似ている。
 戦後、たくさんの社会教育団体が発足した。
 そのとき、事務局に役所の職員を充てた例が、相当ある。
 現在でも、その残骸を多く見ることができる。
 これがまずかったのだ。
 いつも歴史はくり返している。
 よほど気をつけなければ……。

★すこやかみなみネット検討課題bQ「学校・家庭・地域の連携・融合〈支援タイプ〉と〈分担タイプ〉の思想の違い」について、途中だが、きょうはこれで終わる。
 つづく―



2011
03.23
「荷の軽い協働」から「荷の重い協働」にギアを切り替えると



★本ブログの中心メニュー「教育モノ」は、3/9の「すこやかみなみネット・点検内容10項目の1番目」=「(1)学校・家庭・地域が連携・融合・協働して改革する学校部活動問題の進捗状況と今後の方策」を提示したところで途切れている。
 東北関東大震災の復興、および原発トラブルや計画停電といった二次的問題に関する対策については、僕のできる範囲(僕の内なる非現実から外なる現実に突き抜ける方途)において応援しつづけることを約束して、本日より、本ブログは、中心メニューである「教育モノ」へとシフトしていくことにする。

 (「僕の内なる非現実から外なる現実に突き抜ける」については、いずれ、また細かに触れることにするが、東北関東大震災の揺れが、僕の「内なる非現実」を揺すりだしたのだ。)

★僕の話は、いつでもどこでも――
 「日本の教育危機の元凶は、学校の教育独占体制、あるいは学校の教育丸抱え体制にある。
 学校は、抱え込み、抱え込み――たとえば、理科の教師は肝心要のあすの授業における実験の準備に割く時間も見出せないくらい抱え込み、抱え込み――もうパンク寸前、いや、パンク状態で、教育力が極端に低下している。
 また、学校が(好むと好まざるとにかかわらず)どんどん抱え込んでしまうものだから、当然のこととして、家庭・地域の教育力も低下する。
 これを修正し、学校・家庭・地域、それぞれの教育がバランスよくならないかぎり、どんな施策を打ち出しても、あまり、いや、ほとんど効果はあがらない。
 逆にいうと、バランスさえよくなれば、日本の教育はまだまだだいじょうぶだ。
 そのためには――
 という口上から始まる。

 すこやかみなみネット点検項目のトップに「学校部活動改革」をあげるのは、「学校の教育独占体制」の象徴である、改革の本丸であると認識しているからだ。
 これに手をつけないで、他をいくらいじくっても――例「学校事務の組織化から学校改革へ」など――ほんとうの改革は進まない。

★すこやかみなみネットの眼目は「学校・家庭・地域の3者が連携・融合・協働して、それぞれの教育がバランスよく行われる教育環境をつくろう」。
 そのために「子どもの教育に、互いに参加・参画できる仕組みをつくりあげよう」というものだ。
 「子どもの教育に、互いに参加・参画できる仕組みをつくりあげる」ために、すこやかみなみネットでは、
 ・学校・家庭・地域の情報交換会
 ・情報誌の発行
 ・あいさつ運動
 ・小・中、公民館合同文化祭
 ・地域環境美化活動
 ・地域防災・防犯訓練
 ・地域巡回活動
 ・学校支援ボランティア活動――等々、さまざまな連携・融合・協働活動に取り組んできた。

★こんなふうに、(ま、はっきりと、あるいは、アイロニカルにいうと)、創設以来、意識的に、ターゲットを「子どもの健全育成・安全確保」に限定してきたのだ。
 これだと、家庭や地域の諸団体が合意しやすいし、取り組みやすいからだ。
 が、しかし、これらは大切なことだが、改革の本丸ではない。
 学校事務の組織化、効率化といっていることとなにも変わらない。
 やはり、次の段階として、この活動と並行しながらも、(これまで意識的に、ターゲットを「子どもの健全育成・安全確保」に限定してきたのと同じように、意識的に)新たなテーマ(改革の本丸=学校部活動改革)にも取り組んでいかなければいけない。
 ただし、ターゲットを変えると、すなわち、「荷の軽い協働」から「荷の重い協働」にギアを切り替えると、ネットワークの質が変わる。
 よほど慎重にやらないと、一瞬のうちにネットが崩壊することもある。

★僕の出だしの口上は威勢がいいのだが、恐がりの僕の終わりの口上はいつも――
 教育に関していちばん荷を抱え込もうとしているのが学校です。
 この学校が、ダムの水を徐々に、計画的に放流するように、アウトソーシング計画をもたなければ事態は改善しません。
 この「アウトソーシング計画」が、やがてすこやかみなみネットのターゲットになる日がくるかもしれません――
 と、ホンマにホンマに、ぼんやりとしている。

★だから、先日の夕刻、静かになった職員室で、乱氏とプレゼンテーション資料を点検していて、スクリーンに夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになったとき、次のような会話になったのだ。

☆乱氏「学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスをよくするというのが、プレゼン全体のテーマだということはよくわかるのですが、問題は、学校・家庭・地域の3者に、現時点では(事業がスタートしてある程度の時間が経過しているにもかかわらず)『改善されている』という実感がまったくないんですね」

☆僕「同感です。『学校の教育丸抱え体制の打破』の本丸は、中学の場合、結局、部活動改革ですよ。これがまったく進んでいない。だがら、語りの流れが、テーマの提示はするものの、何一つ解決されないまま、即、課題という格好になってしまうんですよ」

☆乱氏「それに、『学校の教育丸抱え体制打破』については、教員はある程度理解していると思いますが、他の人たちの反応は冷ややかですね。」

☆ 僕「冷ややかには二つあると思う。一つは、『丸抱え』でいいという意見。もう一つは、教員が好きこのんで『丸抱え』しているんじゃないかという意見」

 乱氏「アッハハハハハハ(^_^)v」
 僕「日暮れて道遠し(ノ△・。)」

☆乱氏「今回の発表は、各事業とテーマ(学校の教育丸抱え体制打破)の関連を明確にしながら進めてみましょうか? ただ、そうなると時間配分がね……」

☆僕「それに、その関連で『部活動問題』を正面から取りあげると、学校部活動体制維持派と改革派の関係が険悪になって、ネットワークが一気に崩壊するかもしれません……」

★乱氏との会話もぼんやりしているが、きょうの記述もホンマにぼんやりしている。
 このぼんやりした状態から、きょうも抜け出せそうにない。
 ホンマにホンマになさけないが、きょうもぼんやりしたまま終わることにする。(ホンマは「腹案」^^;がある。)

★最後に、少し観点を変えて、僕のいう「学校の教育丸抱え体制」を強める方向に作用したと思われる点について、粗く3点あげる。

 1つは、学校中心自治民育体制。
 昭和7年文部省訓令「学校少年団」
 昭和16年「大日本青少年団」
 昭和20年5月22日戦時教育令=「学徒隊」
 このいう流れのなかで、いわば「学校中心自治民育」体制が確立していったと思われるのだが、この戦前の学校イメージが、敗戦後も、幻影として保持されたこと。

 2つ目が、教育爆発現象。
 高校進学率が昭和20年代〈20%〉→昭和50年代〈90%〉と急カーブを描いている。
 受験のための狭義の学力観(=価値観)に地域・家庭も追随していったこと。

 3つ目は、地域社会構造の変化。
 職住分離・核家族化が進行したこと。

 この3つにくらべれば、影響は極々小さいと思うが、もう1つあげるなら、「学習指導要領」の問題だ。
 なにかあると、学習指導要領に取り込み、学校で取り扱うという安易な判断が積み重なり、つまるところ、学習指導要領が、教育というものの、すべてを、学校に取り込む方向(なんでも学校、家庭もそう思い、地域もそう思い、教師自身もそう思いこむ)をつくりだし、結果として、学校の教育丸抱え体制を強化させる方向に働き、それが同時に、社会の教育力を奪ってしまった。

 蛇足になるが、今、学習指導要領が、教育というものの、すべてを、学校に取り込む方向をつくりだし、結果として、学校の教育丸抱え体制を強化させ、同時に、社会の教育力を奪ってしまったと書いたが、残念なことに、現学習指導要領案によると、総則第4の3(13)に「部活動については、(中略)学校教育の一環として、教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際、地域や学校の実態に応じ、地域の人々の協力、社会教育施設や社会教育団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること」とある。
 部活動が、教育課程外であるという位置づけは変わっていない。
 しかし、「教育課程との関連が図られ」と指示している。
 バカげた話だ。
 何度もくり返すようだが、こういう安易な妥協、あるいは「取り込み」が積み重なり、積み重なり、既に40年前の第3の教育改革を構想しなければならないような教育危機状況に至ったのである。
 まだ懲りないのか?

 記述内容がぼんやりしたままで忸怩たるものがあるが、きょうは、これで終わる。


2011
02.19
すこやかみなみネットも乱氏の声も


★起きがけに、自分のHP記事の下に〈ツイートする〉というボタンをつけてみた^^;。
 ま、たぶん、つけたといっても、結局、ボタンを押すのは自分、「ツイートする」のも自分というハメになると思うが、まずは、どんなものか、ちょっとテストしてみよう(*^_^*)。

 (テスト後)

★〈ツイートする〉ボタン、テスト完了。
 なんや、あんた、今まで知らんかったんか……と笑われそうだが、このボタン、スゴイ(^_^)v。
 僕のHP名「ようこそ!小高進の公式HPへ」は出るし、URLも明記してくれるし……、これで、だれかが、僕の記事から「ツイート」してくれれば最高(^_^)v。

★まずは、自分の記事から、自分でせっせとtweetしよう(*^_^*)。
 けさは、結構、雨音が強い。
 えんぶり組が気の毒だ。(←午前5時半現在)
 昔、初めて全国放送された時、圧雪が溶けた水たまりで太夫が履いていた黒いゴム長に対し「800年の伝統芸能が長靴を履いている」と揶揄されたことを思い出した。

★「すこやかみなみネット」に関する発表や講演のために、夕方、静かになった職員室で、液晶プロジェクターを使い、乱氏とプレゼンテーション用のスライドを点検していたら、スクリーンに夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになるという作業は、結局、その日だけで終了することができず、次の日の夜も行うことになった。

★紺色を基調にしたスライドに夕陽の赤が差しこみ、スライドのカタチが崩壊する状況を、僕は思わず「壮絶」と形容してしまった。
 教育危機の元凶=「学校の教育独占体制(丸抱え体制)」を改革しようと思うと、相当な困難を乗り越えなければいけない。
 僕には、その「困難さ」が身に染みているのだろうか?^^;
 「壮絶な最期を遂げる」という慣用句に直結してしまった^^;。
しかし、濃紺色のスライドに夕陽の赤が溶け込む色合いは、見ようによっては、美しい。
 僕に強い影響を与えた小説『夕べの雲』(庄野潤三)。
 ――日の暮れかかる頃に杉林のある谷間で安雄と正次郎の声が聞こえてくる。
 「もう夕御飯なのにいつまで遊んでいる気だ」と腹を立てながら、大浦は二人を呼びに行く。
 そんな時、彼はつい立ち止まって、景色に見入った。
 「ここにこんな谷間があって、日の暮れかかる頃にいつまでも子供たちが帰らないで、声ばかり聞こえていたことを、先でどんなふうに思い出すだろうか」
 すると、彼の目の前で暗くなりかけてゆく谷間がいったい現実のものなのか、もうこの世にはないものを思い出そうとした時に彼の心に浮かぶ幻の景色なのか、分からなくなるのだった。
 そこにひびいている子供の声も、幻の声かもしれなかった。

すこやかみなみネットも、耳元の乱氏の声も、もうこの世にはない幻かもしれない……と、僕は、夕日の赤が溶けこむスライドに見入る。

★「すこやかみなみネット」を語る場は、2日後の「学社連携・融合担当者連絡会」、1週間後の市の中学校生徒指導担当者会議、どちらも乱氏が担当。
 さらに1週間後の隣町の生涯学習まちづくり大会、これは僕が担当。
 1週間後、2週間後はさておき、2日後に迫った発表会までに、ひっかかる点、また、念には念を入れて語らなければならない点などを総点検しようというわけだ。

★それらの点を列挙する。

(1)学校・家庭・地域が連携・融合・協働して改革する学校部活動問題の進捗状況と今後の方策。
(2)すこやかみなみネットと「八戸型教育コミュニティーづくり」(最近登場した「地域密着教育」とは似て非なる思想)の関係。
(3)学社連携(←ゆるやかな連携)と小・中学校連携(←強い連携)の関係。
(4)すこやかみなみネットの機能とターゲット。
(5)PTAがネットの中核になることの意義。
(6)便宜的に実働部隊と支援部隊に分けていることと、今後の改善の見通し。
(7)PTA役員と一般会員の関係。
(8)荷の軽いターゲット(みんなが取り組みやすい問題)から荷の重いターゲットへの移行が可能か?という問題。
(9)サポータークラブ(ボランティア活動)、親父の会、OB会への期待。(本日は項目だけのアップにとどめる。詳細は後日に。)

順調に進行していて、二言三言、互いに確認し合えばいい内容と、問題をはらんでいて解決するのに難航が予想される内容とがある。
 (1)の「学校部活動問題の改革」は、もちろん後者だ。

◆きのうは、手近にスクリーンがないので(ま、移動用スクリーンを持ち込めばいいのだけれど、大きくて重くて、めんどう……)、クリーム色に塗られた、出入り口のドアをスクリーン代わりに使った。
 ドアの大きさは2人ブレストにはちょうどいい。
 けれども、2人の教員がドアに映しながらブレストというのが、なんとなくみすぼらしい。
 いい加減な感じもする。
 そこで、画像のようなスクリーンを作製した。
 縦90センチ・横110センチの手作りだ。
 夏休み前に警察署から贈られた、「なんとか宣言」のプレートの裏をスクリーンにして、大型の目玉クリップでついたてに挟んで固定した。




2011
02.18
教育危機の元凶は「学校の教育丸抱え体制」


★夕方、静かになった職員室で、乱氏とプレゼンテーション資料を点検した。
 当日の予行を兼ねて、液晶プロジェクターを使った。
 スクリーン代わりに、出入り口のドア面に投写していたら、夕日の赤色が差しこみ、壮絶な色合いになる。


★このスライドの意味は、粗く、次の通りだ。

 現在の日本は、残念なことに、学校・家庭・地域の教育のバランスが崩れている。
 現状は「学校の教育丸抱え体制」あるいは「学校の教育独占体制」といっていい。
 学校はパンク寸前だ。
 既に本来の教育力が発揮できない状況にある。
 (また、学校が望むと望まざるとにかかわらず、丸抱えしているのだから、結果として)家庭・地域は教育力が発揮できない。
 当然、教育力は低下する一方だ。
 この悪循環が日本の教育危機を招いている。
 教育危機の元凶である。
 逆にいうと、このバランスさえよくなれば、日本の教育はまだまだ大丈夫だ。
 だから、今、学校・家庭・地域の3者が連携・融合・協働して、「バランスをよくするのだ」という方向をしっかりと確認しながら、子どもの教育に参加・参画できる仕組みをつくりあげていこう――と。

☆乱氏「このスライドが、プレゼン全体のテーマだということはよくわかるのですが、問題は、学校・家庭・地域の3者に、現時点では(事業がスタートしてある程度の時間が経過しているにもかかわらず)『改善されている』という実感がまったくないんですね」
 
☆僕「同感です。『学校の教育丸抱え体制の打破』の本丸は、中学の場合、結局、部活動改革ですよ。これがまったく進んでいない。だがら、語りの流れが、テーマの提示はするものの、何一つ解決されないまま、即、課題という格好になってしまうんですよ」

☆乱氏「それに、『学校の教育丸抱え体制打破』については、教員はある程度理解していると思いますが、他の人たちの反応は冷ややかですね。」

☆ 僕「冷ややかには二つあると思う。一つは、『丸抱え』でいいという意見。もう一つは、教員が好きこのんで『丸抱え』しているんじゃないかという意見」

乱氏「アッハハハハハハ(^_^)v」
 僕「日暮れて道遠し(ノ△・。)」

☆乱氏「今回の発表は、各事業とテーマの関連を明確にしながら進めてみましょうか? そうすると、時間配分が問題になりますけどね……」

 今回の発表者は乱氏だ。
 発表の日時が迫っている。
 だから、この話の結論を急いでいるようだ。

☆僕「しかし、その関連で『部活動問題』を正面から取りあげると、学校部活動体制維持派と改革派の関係が険悪になって、ネットワークが一気に崩壊するかもしれません……」

★僕が、これまでの行程(ネットワークの形成)とこれからの行程(学校部活動問題の解決)とを比較し、立ち尽くし、断念したポイントというのは、ここのことだ。
 また(くどいようだが)、直前のHP更新で「大至急、すこやかみなみネットの再点検、再考察に入らなければならない」としたのも、ここのことだ。





10.07.22 すこやかみなみネットがめざすカタチ




◆先日、開いた、松ちゃん提案の「すこやかみなみネットの理念や力点&ことばの定義を再確認しよう」に関する協議について、きょうは、その2回目。

(2)すこやかみなみネットがめざす、究極のカタチ

 学校支援地域本部事業やコミュニティスクール・地域運営学校、あるいは、放課後子ども教室推進事業等と、わたしたちの「すこやかみなみネット」との「違い」を鮮明にすることによって、わたしたちがめざす「究極のカタチ」を明らかにしたい。

◆学校支援地域本部事業等、今、わたしが例示した事業に共通するのは、学校を地域や家庭で支援する(学校は苦しそうだから、支援してやろう、応援してやろう)という発想がある。
 たとえば「子どもの環境は、情報化、価値の多様化も含めてどんどん変化しており、学校はこれまで以上にさまざまな課題を抱えるようになっています。学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援していくことが求められています」(清水潔・文部科学省生涯学習政策局長)という言い回しだ。

◆しかし、はっきりいっておくが、わたしは「学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援」してもらおうと考えたことは、これまで1度もない。
 現在の教育危機の元凶は、(学校が好むと好まざるとにかかわらず)学校が多くの荷を抱え込みすぎたことに(ま、わたし流にいえば)「学校の教育丸抱え体制」、あるいは「学校の教育独占体制」にあると考えている。
 だから、(ここが大切……)学校が抱えている荷をそのままにして、「たいへんでしょう。だから、支援してさしあげましょう」という、いわば「そのまま、ずっと抱え込んでいろ」的な発想では、事態の好転は、ほとんど期待できない。

◆学校が抱えている荷のなかで、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に……と、適切に分担(この「分担」も「連携」の一形態)することにより、学校の本来の教育活動が充実する。
 同時に、分担することにより家庭も生き返る。
 地域も生き返る。
 すこやかみなみネットは、学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスが取れ、それぞれの教育が充実する状態、このことを目指した、学校・家庭・地域の連携・融合・協働であり、ネットワークづくりである……という発想だ。

◆だから、「もう一度地域の人が結集するシンボルとしての学校を見直そう」(清水潔・文部科学省生涯学習政策局長)とか、「……さまざまなネットワーク活動を意図的に立ち上げて社会のつながりをつけ直すことが必要だと思う。そのためのひとつの有効な方法として、いい学校をみなで作ろうということを目指した、学校を拠点とした地域と学校の連携を深めるネットワーク活動がある」(金子郁容氏)という思想とは、(「絶対に」とまではいわないが、それに近いくらい)あいいれないものがある。

◆くどくなるけれども、くり返す。
 すこやかみなみネットでは、学校の荷はそのままに……という連携や、学校を拠点にした連携という発想はとらない。
 学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスがよい状態を追い求めている。
 これが、究極のカタチだ。

 学校・家庭・地域のバランスがよくなれば日本の教育はまだまだよくなる。
 日本の学校には力がある。
 家庭もそうだ。
 地域もそうだ。
 ただ、今、バランスが悪いだけなのだ。
 バランスがよくなれば、日本はまだまだ大丈夫だ。
 逆にバランスが悪いままだと、なにをやってもなかなか効果はあがらない。
 バランスをよくするための連携事業、ネットワーク活動が大切だ。

◆わかりやすくいえば、すこやかみなみネットは「バランス主義」、そうでないのは「学校中心あるいは学校拠点主義」。
 この区別はきちんとつける必要がある。
 区別をつけておかないと、まず、まちがいなく、道を誤る、落とし穴に落ちる。
 今、やっている連携事業が、バランスをよくすることに結びついているかどうかを絶えず点検する必要がある。

◆ちなみに、(これは後の項目で詳しく述べる内容だが)「学校中心主義」かどうかを、見分けるための簡単な方法がある。
 そのネットワークの中核になっているエネルギーがどこにあるかを点検すればいいのだ。
 わたしは、いろいろな連携事業を取材するとき、必ず、まず「会議の招集はだれが決めるのですか?」「だれが連絡をとるのですか?」「会場はだれがセットするのですか?」「このプリントはだれが作ったのですか?」「会計はだれがやっているのですか?」等とたずねる。
 あるいは、「実施要項」とか「会則」とかの「事務局」の項目をみる。
 「事務局には、事務局長を置き、教頭をもってこれに充てる」というようなことが書いてある場合は、最悪のパターンとまではいわないが、ま、あまり期待できない。

◆話は少しそれるが、日本の社会教育の失敗も、これに似ている。
 戦後、たくさんの社会教育団体が発足した。
 そのとき、事務局に役所の職員を充てた例が、(どのくらいだろう? 相当)あるのではないか。
 わたしは、これがまずかったと思っている。
 いつも歴史はくり返している。
 よほど気をつけなければ……。



10.07.16 公民館を核とする社会教育エリアをヨコ軸に、小・中の連携・融合をタテ軸に構想する八戸型教育コミュニティづくり



◆先日、開かれた、松ちゃん提案の「すこやかみなみネットの理念や力点&ことばの定義を再確認しよう」に関する協議について、時間をみて、その記録をアップしていきたい。

 まず、骨子だけを述べ、そのうち、詳細説明が必要な分については、あとから補足していくカタチを取ることにする。

◆きょうは、その1回目。

(1)八戸型教育コミュニティづくりとすこやかみなみネットについて。

 八戸市では市内に26ある中学校区ごとに、地区公民館(非常勤館長1、非常勤主事3)を設置し、学校・家庭・地域の連携・融合・協働を促す仕組みづくりを進めている。

 また平成16年度からは中学校区単位で、小・中学校連携・融合推進事業を展開し、義務教育9年間を見通した学習指導と生活指導を進めている。

 このように、社会教育エリアと学校教育エリアをぴったりと重ね合わせるというのが八戸のやり方で、これが八戸教育の目玉になっている。
 すなわち、地区公民館を中心とした社会教育エリアをヨコ軸に、小・中学校の連携・融合をタテ軸に、教育を構想する。
 これが八戸型教育コミュニティづくりの基本構造である。

 すこやかみなみネットは、この八戸型教育コミュニティづくりの典型といっていい。
 ちなみに、ときどき話題になるのだが、八戸市地域密着型教育推進事業や学校支援地域本部事業、あるいはコミュニティスクール等とは、当然、重なり合う部分はある。
 しかし、理念はまった異なる。
 この点は注意してほしい。
 違いは、先日の「松ちゃんとの協議」でも、話し合ったので、順次、説明していくつもりだ。

関連記事 ・『教育ジャーナル5月号』(学研教育みらい)で、わたしたちの「すこやかみなみネット事業」を特集。感謝。
遺恨ある想念
文部科学省・国立教育政策研究所で「すこやかみなみネット」に関して「わたしにしか語れないこと」を語る
5校、すなわち、2中学校区(人口25000〜30000人)という規模でやるメリットはなにもないのか
すこやかみなみネットの基礎設計は1次生活圏だが、最適圏域の異なる多数団体で構成する重層ネットワークだ

★画像=南部縦貫鉄道・レールとおそぼう2010。南部縦貫鉄道は昭和37年開業以来、平成9年に休止するまで35年間、雨の日も、雪の日も走りつづけた。経営的には、おそらく千辛万苦の35年間だったことだろう。その千辛万苦のなかの「喜び」が、パチリととらえることができれば……と思って、シャッターを切った。




10.07.15 すこやかみなみネット事業・語り手の多さと豊かさが、精神ののびやかなつながりと、活動の継続を保証する




◆すこやかみなみネットの強みの1つは、事業内容(設立の背景・理念・組織形態・活動・課題等)について、説明や発表ができる、あるいは講演ができるという「語り手」が複数、存在することだ。
 松ちゃん、乱氏、それから既に転勤したが、岬氏、白山氏。
 もちろん、一応、わたしも^^;。

 ※すこやかみなみネット=学校・家庭・地域のそれぞれの教育力がバランスの取れた教育環境の創出をめざす八戸型教育コミュニティづくり

◆1人しか語れない。
 その人が倒れたら、おしまいというのでは、心もとない。
 というか、1人しか語れないというのは、はっきりいえば、活動が、まだまだホンモノでないということだ。
 すこやかみなみネットは、既に複数いる。
 複数の語り手が分担して、各種の説明会、発表会、講演会で、すこやかみなみネットの活動を語っている。

◆ただ、ホンネをいうと、語れる人が、もっと増えることを願っている。
 たとえば、PTAだと、現在は、トップの松ちゃんだけだが、他の本部役員(副会長・監査・会計・書記等)、あるいは、各専門委員会(生活指導・環境厚生・教養・部活動・広報・学年等)委員長、さらには各サポータークラブ(ボランティアグループ)の代表へとひろげたい。
 学校も、校長・教頭・教務主任だけでなく、各校務分掌主任(研修・生徒指導・保健・学年等)へとひろげたい。

 語り手の多さが、あるいは、豊かさが、形式的でなく、押しつけでなく、精神ののびやかなつながりの中で、活動がひろがっていくこと、そして、継続していくことを保証する。

◆ただし、語り手が増えれば、心配なこともある。
 理念とか、活動内容の意味や力点とか、あるいは、使用語句の定義とかについて、微妙なズレが生じてくる。
 先日、松ちゃんから「理念や力点を再確認しよう。語の意味を統一しよう」という提案があった。
 すこやかみなみネットも設立して6年目に入る。
 組織のカタチも、活動内容も、そして、活動を支える人々も、だいぶ変わってきている。
 タイムリーな提案だと思う。

 先日、松ちゃんを中心に、そのための会合を開いた。
 以下、そこで確認した内容について、話し合った順に(要するに、アトランダムに^^;)列挙することにする。

★画像=すこやかみなみネットあいさつ運動。
 すこやかみなみネットの活動は、これまで、学校や地域団体等で別々に行われてきた取り組みを、すこやかみなみネット全体の中で、調整することによって、新しい結びつきを創りだすところに特徴がある。
 このあいさつ運動は、これまで、生徒会活動、地域の少年警察ボランティア連絡会で別個に行われていた活動を融合するとともに、新たにPTAが加わって実施されている。

 各団体の活動を、すこやかみなみネットとして、支援・調整、広報活動を行っている。
 一例として、平成18年度は、白銀南小子ども祭、白銀南中文化祭、白銀南公民館文化祭を合同開催・すこやかみなみネット祭りとして企画した。
 メリットとして、各会場とも参加者が増えたこと、児童生徒が社会教育活動を体験しやすくなったこと、公民館・学校それぞれの強みを生かすことができたこと等があげられる。
 また、安全パトロール活動やあいさつ運動など、地域情報交換会での提案をもとに、諸団体間で連携・融合が活発になり、孤軍奮闘していた団体からは大歓迎されている。


10.04.01 『教育ジャーナル5月号』特集記事に



◆『教育ジャーナル5月号』(学研教育みらい)の特集記事で、わたしたちの「八戸型教育コミュニティづくり・すこやかみなみネット事業」を取りあげています。

 全7ページにわたる大作(*^_^*)です。

 これまで、わたしたちがあちこちで発表した内容をきちんと踏まえていただき、過不足なく取材し、それに執筆者の熱い思いをのせて編集しています。
 学研教育みらい社と、直接、執筆にあたった和田成氏に心より感謝申し上げます。

 ただ、1点、記事中、「八戸型教育コミュニティづくり・すこやかみなみネット事業」と「地域密着型教育推進事業」とが、強い関連があるような記述が見受けられますが、はっきりいえば、両者は別モノのです。
 理念が大きく異なります。

 また、記事中、「八戸型コミュニティ・スクール」という語が登場しますが、「八戸型コミュニティ・スクール」という概念は存在しませんし、すこやかみなみネット事業が、コミュニティ・スクールを目指しているわけではありません。

◆この点についての詳細は、後日、この600字の教育学blog上で述べるつもりです。



10.03.19 学社連携・融合の新しいステージ



◆昨日、教職員対象の「職員室通信」と、地域・保護者対象の「すこやかみなみネット通信(学校通信)」を融合させようとしたら、意外と、両者の共有部分(重なり合う部分)が少なく、融合は難航している……教育の記述に関して、地域、家庭、学校の重なり合う部分が小さいというのは、絶対にまちがっていると思う……わたしの思考の枠組みを再検討しなければ……と書きました。

 こう書いて、記事をWEB上にアップした直後に、自分が、かなり大切な部分に踏み込みはじめていることに気づきました。

◆その「大切な部分」について記述する前に、誤解のないように、念押ししておきますが、わたしは、職員対象の「職員室通信」と、地域・保護者対象の「すこやかみなみネット通信(学校通信)」とが、ピッタリと融合すべきだ……と言っているのでは、もちろん、ありません。
 「職員室通信」を書き終わったあと、スイッチを切り換えるように、「すこやかみなみネット通信」を書く……というのが、間違いだと言っているのです。
 学校と家庭と地域が協力して、子どもの教育に携わっているわけですから、「職員室通信」と「すこやかみなみネット通信」には、当然、重なり合う部分がなければいけません。

 というふうに、普段から、口を開けば「学校・家庭・地域の連携」と主張している人間(←わたし)にもかかわらず、その「重なり合う部分」の量が、意外と少ないなぁ〜と、ちょっと落胆しているのです。

◆これは、わたしが、教育を思考する「位置」が浅いから、こうなるので、もう少し底に向かって沈潜する必要があると感じています。
 この「感じ」が、昨日の「これまでにない新しい枠組みが形成されつつある感覚」です。

◆ここまでは、「重なり合う部分」の、多い少ないという「量」の問題です。
 もうひとつあります。
 学校と地域・家庭の「関係」、さらにシビアにいえば、「区別」の問題です。

 学校は「国家及び社会の形成者」を育成するという、きわめて公共性の高い役割を担っています。
 しかし、学校だけで教育が行われるのではありません。
 子どもたちを取り巻く自然的・社会的諸環境のすべてが、子どもたちの人格形成に一定の役割を果たしています。
 家庭や地域社会が、教育の場として十分な機能を発揮することなしに、子どもの健やかな成長はあり得ません。

 わたしは、これまでのわれわれの中学教育が「学校の教育独占体制」あるいは「学校の教育丸抱え体制」だった(われわれが真にこの体制を望んだわけではないが……)ことを猛省しつつ、学校が教育の一部に過ぎないという自覚と、(1)その一部において、きっちりと責任を果たしつつ、(2)他の教育機能とのバランスに配慮して、コーディネート機能を発揮していくことが大切だと考えています。

 昨日からの話題である「重なり合う部分(学校・家庭・地域の連携&融合)」でいえば、それが、上記の(1)においてなのか、(2)においてなのかを明確にすることはきわめて重要です。

 この項は、きょうは、これでいったん終わることにします。
 日を改めて、また、つづきを書くことにします。

★画像は、すこやかみなみネット新年会。










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